塾というのは、学校のできないことをやるから存在している。需要がそこにある。
塾というものは、自由に選択ができ、やめるのも自由だ。
だから、競争原理にさらされる。これがいいとこだと思う。
学校は、公立なら、競争原理には晒されない。だから進歩しないのだろう。
ところが、競争原理が、教育の質的向上とかより、宣伝力と資本力にあるから、おかしくなる。資本主義が、教育の分野まで露骨に入っている。
受験で合格実績出すのに、特待生を集めたり、模擬試験で優秀なら、ただで教えてているところはいっぱいある。
つまり、できる子を集めて実績を出す。そしてできなくて金のあるこがお客さん。
これが露骨過ぎるところが、のし上がる構図。これが受験産業。
できない子は、大抵伸びない。基礎の入れ込みを大手はしないし、できないからだ。それに気付いても遅いことが多い。
これが、私立の高校も似たような構図だ。素質のいい子を特待で集める。有名私立はしない。
要するに、できない子は、塾に行っても、学校に行ってもお客さんになる可能性がある。大手は基本的にそうだ。
個人塾のいいところは、そういう構図から、外れて、独自の教育手法で、子どもの学力を伸ばそうとする。つまり、学習方法の純粋な改良で、子どもたちをできる子も、できない子も伸ばそうとするところに真の存在理由があるのではないか。
子どもは、やり方次第で伸びる。ここに塾の存在理由があるのではないかとずっと思ってやってきている。
普通のやり方では、簡単には伸ばせないと思う。